2022-11-01

カメラの歴史で振り返る、高度経済成長期のトプコン

目次

若い方から、「インターネットで「トプコン」と検索したらカメラが出てきて驚いた」というお声をいただくことがあります。実は、戦後の復興期から1970年代まで会社の経営を支え、現在の《グローバル企業トプコン》へ続く足がかりを作ったのは、今はないカメラ事業でした。

それは、トプコンがトプコンと名乗る以前の、まだ「東京光学機械株式会社」だった時代。現社名である「トプコン」は、もともと1950年代に社内公募で選ばれて以降幾多の製品に冠された、カメラ事業のブランド名だったのです。

今回は、往年のカメラファンの垂涎の的であった名機の数々を振り返りながら、カメラ光学技術の進化とトプコンのカメラ事業の変遷を紐解きます。

昭和初期から手掛けていた測量機器、カメラの制作

1932年(昭和7年)創業の「東京光学機械株式会社」(以下、東京光学)は、終戦までは陸軍省からの発注で、「トランシット」「レベル」などの測量機器、「ロビン」「モナーク」「マグナ」などの双眼鏡、照準眼鏡、各種の航空カメラや射撃監査カメラなどを製造していました。
東京光学は1935年(昭和10年)頃から軍用品でない一般用カメラの開発にも乗り出し、1937年(昭和12年)には第1号となる「LORD」の生産を始めます。しかし時は日中戦争開戦の年。「LORD」は、わずか50台ほどの生産で打ち切りとなりました。「LORD」の翌年1938年(昭和13年)に発売したスプリングカメラ「ミニヨン」も、本格的な生産は終戦後しばらく経ってからのことでした。

平和と自由の時代を撮ろう。民生用カメラの新たな旅立ち

1960年ころの東京光学前。

終戦後の東京光学は「これからは、平和なもの、世の中を良くするもの、よく売れて会社と従業員の未来を拓くものを作ろう」と、心機一転を誓います。そしてその大きな柱と定めたのが、戦前に頓挫したカメラ事業でした。

連合軍の民生用転換許可が下り、カメラ事業では戦前の「ミニヨン」の在庫部品の組み立てが始まります。しかし当初は国内販売禁止。外貨獲得のための輸出用のみが生産を許されました。そんな中で生まれたのが、1948年(昭和23年)発売の小型35ミリカメラ「ミニヨン35」。初期モデルは貿易庁の許可が下りず、規格変更を経た改良版で、主にアメリカ向けの輸出が実現します。

その後の1949年(昭和24年)、生産量の2割に限定して国内販売が解禁されますが、まだ市場は小さく需要は伸び悩んでいました。こうした状況下でも、「ミニヨン35」シリーズは幾度のマイナーチェンジを重ね、1953年(昭和28年)発売の「トプコン35」へと、カメラ製造のバトンを静かに繋いでいくのです。

トプコンブランド誕生。技術革新と大躍進の1950年代

1950年代始めから1960年代末までの約20年間は、トプコンのカメラ事業が大きく花開いた時期でした。

1951年(昭和26年)に、二眼レフカメラ「プリモフレックス」を発売。その後も改良技術を落とし込んだシリーズ後継機を次々と世に送り、国内で湧き上がりつつあった二眼レフブームに先鞭をつけて、会社の経営を支えました。ちなみに、「プリモフレックス」は、SOLEILという日本のバンドのアルバムジャケットに登場しています。気になる方はぜひチェックしてみてください。

1953年(昭和28年)には、35ミリカメラの新商品「トプコン35」が誕生。(2年後の1955年(昭和30年)に「TOPCON35A」と名称変更)。このモデルで初めて刻まれた「トプコン」の銘は、かつての「LORD」や「ミニヨン」と同じく社内公募で選ばれたものです。この時点では発案者も選定者も、後年これが東京光学に代わる新社名になるとは想像もしなかったことでしょう。

「TOPCON35」シリーズは、レンジファインダー式カメラの技術を磨きながら1950年代半ばまでに多くのバリエーションを展開。中には、内蔵距離計の連動に日本古来の弦楽器である琴や三味線の弦を使った機種もありました。

1957年(昭和32年)に発売した「トプコンR」は、フォーカルプレーンシャッター35ミリのシステム一眼レフの先駆け的存在。翌年のブリュッセル万国博覧会で名誉賞を受賞し、国内においても通商産業大臣より表彰を受けました。

「トプコンブランド」のカメラ事業は、高い技術力と先進性、優れたデザイン力が認められ、戦後の経済復興に伴って拡大する国内市場を席巻。会社の基幹部門として快進撃を続け、1950年代半ばには売上高の85%を占めるまでに成長しました。

1950年代後半からは、大型カメラ「ホースマン」の製造にも着手しました。1959年(昭和34年)に発売した東京光学の新規設計モデル「トプコンホースマン960」を皮切りに、同シリーズの生産は、1990年代初めのカメラ事業完全撤退まで息長く続いていきます。

「ホースマン」は、前出の「トプコンR」や後出の「トプコンREスーパー」とともに、昭和天皇が生物学研究所で愛用されたカメラでした。また1984年(昭和59年)には、礼宮文仁親王殿下(現在の秋篠宮殿下)がご学友とともに、東京光学を工場見学されています。殿下は学習院高等科在学中に写真部キャプテンを務められ、やはり「ホースマン」に強い関心を寄せられていました。当時、小型カメラの生産は終了していましたが、大型カメラの「ホースマン」はまだ継続していたため、工場の見学を熱心に希望されたということです。

技術と洗練の頂点へ。再び世界を照準に捉えた1960年代

1950年代をトプコンブランドの躍進期と見るなら、続く1960年代は技術的成熟期と言えるでしょう。

1960年(昭和35年)に国産初のレンズシャッター式35ミリ一眼レフ「トプコンPR」を、1962年(昭和37年)にはアメリカの商社ベッセラー社の開発依頼に応えた「トプコンRS」を販売開始。光学技術の最先端を切り拓くと同時に設計や仕様における柔軟性と拡張性を高め、ブランド価値を向上させていきます。

1963年(昭和38年)に発表した「トプコンREスーパー」は、世界で初めてTTL (Through The Lens)開放測光方式を採用した一眼レフカメラです。TTLとは、撮影レンズを透過した光を直接測定する露出設定機構。従来は撮影者の勘に頼っていた露出が正確に測定でき、通常のレンズ以外でも接写や顕微鏡撮影などに威力を発揮します。この新機軸は多くのカメラ愛好者とメーカーにとって《事件》であり《未来》であり《エポックメイキング》。そしてこれ以降、日本のカメラメーカー各社ではTTL方式への追随が続くのです。

「トプコンREスーパー」は発売開始の1963年(昭和38年)、ドイツで開催された世界最大規模のカメラ展示会「フォトキナ」に出品され、世界の関係者から高評価を受けました。また1969年(昭和44年)にはアメリカ陸海軍の標準カメラに指定され、東京光学から修理要員を派遣していました。さらに半世紀以上を経た2020年(令和2年)、「トプコンREスーパー」は、国立科学博物館が実施する「重要科学技術史資料」の登録制度で「未来技術遺産」に認定されました。

1964年(昭和39年)には、世界初のミラーメーターを搭載したレンズシャッター式35ミリ一眼レフカメラ「トプコンユニ」を発売。レンズシャッター式一眼レフでは初めての、レンズ交換式TTL測光AE(自動露出)カメラでした。手頃な価格のファミリーカメラとして大ヒットし、発売から3年半で20万台を販売しました。当時は、生産も販売もまさに破竹の勢い。前年にデビューした「トプコンREスーパー」も販売最盛期にあり、拡大する需要に応えるため、月産1,500台という超ハイペースで生産を続けていたそうです。

時代は高度経済成長期。1964年(昭和39年)は、東海道新幹線の開通、海外旅行の自由化、10月に東京オリンピックの開催もありました。トプコンブランドのカメラは、プロカメラマンのみならずアマチュアの写真愛好家にも撮影の楽しさと奥深さを啓蒙し、カメラ文化の裾野を拡げていったのです。

トプコンブランドのレンズシャッター式一眼レフカメラは、東京光学の技術の集大成とも言うべき「トプコンユニレックス」の登場をもって、ひとつの完成形に到達します。このカメラは、ミラーメーター中央のスポット測光とペンタプリズム脇の平均測光を切り替え可能で、ストロボはすべてのシャッター速度にシンクロする機構を備えるなど、最高水準の機能と完成度を誇りました。1968年(昭和43年)に輸出向け、翌1969年(昭和44年)に国内向けを販売開始し、国内外で多くのファンを獲得しました。
東京光学が小型カメラの生産を終了して40年以上が経過しましたが、ビンテージとして現存するトプコンブランドのカメラは、インターネットや中古品市場、雑誌、TVなどの多くの媒体で、今も熱い視線を集めています。「トプコンユニレックス」も、令和を迎えてなおNHK Eテレの番組(2019年(令和元年)6月放送「デザインあ」内「かたち」のコーナー)で取り上げられるなど、高く評価されています。時代を超越する不朽のマスターピースとして、トプコンブランドの名機たちは、日本のカメラ史に燦然と輝き続けているのです。

カメラの歴史を「医・食・住」に活かす。「トプコン」は永遠に

1980年(昭和55年)7月。戦後の復興期から数々の革新的な名機を世に送り、写真文化の一般化と発展に貢献した東京光学は、多くのファンに惜しまれながらも小型35ミリカメラの生産を終了します。その後は大型カメラ「トプコンホースマン」のみ製造を継続しましたが、これも1992年(平成4年)3月31日をもって駒村商会へ業務を移管し、すべてのカメラ事業から撤退しました。

しかし、現在のトプコンが掲げる《「医・食・住」に関する社会的な課題を解決し、豊かな社会づくりに貢献します。》という経営理念は、まさにカメラ事業の経験と実績によって導かれた側面があります。たとえば、グローバル化の第一歩は、1957年(昭和32年)に米国・ニューヨーク市のジャパンカメラセンターに駐在員を派遣し、翌年から現地のカメラ商社・ベッセラー商会に技術者を常駐させたことが端緒。これ以降、トプコンブランドのカメラ販売網を世界中に拡げていたことが、後年の測量機や医療機器の拡販に、環境の整った風通しの良い門戸を開きました。また眼底カメラや手術顕微鏡などの開発も、カメラ事業で培った技術が強力なアドバンテージとなりました。

「東京光学機械株式会社」は、1989年(平成元年)4月、社名を「株式会社トプコン」と改めます。それは、カメラ事業の歴史と世界に愛された「トプコン」の銘に敬意と誇りを表し、新たな門出に際して総合精密機器メーカーとして歩み出す決意をあらためて確認した、とても大きな新社名だったのです。