2023-08-28

戦国武将・武田信玄は治水事業に長けていた

目次

武田信玄(1521〜1573年)は、知力と軍力に優れた、日本の戦国時代を代表する名将です。生涯で戦に挑んだ72回のうち、敗戦したのはたった3回だけ。あの徳川家康も「三方ヶ原の戦い」(元亀3年、1573年)で信玄に惨敗しています。戦国最強といわれる才能は、軍事だけに留まらず、治水事業においても優れた手腕を発揮しました。信玄が手掛けた堤防は、「信玄堤(しんげんづつみ)」として現在も親しまれ、約450年経った今でも活躍しています。

 

戦乱の世を生き抜くために富国を目指した信玄は、どのように治水事業を推進したのでしょうか。その詳細に迫ります。

 

信玄が治水事業を迫られた理由とは?

 

武田信玄は、19歳の時から現在の山梨県に位置する甲斐国を治めていました。領土内に広がる甲府盆地は扇状地であり、複数の川が流れ、最終的に日本三大急流に数えられる富士川に合流しています。当時は大雨が降ると、周囲を取り囲む3000m級の山々から一気に濁流が押し寄せ、度々大氾濫が起きていました。

 

元々扇状地は、水はけがよすぎる痩せた土地です。さらに、度々洪水の被害にまで見舞われると、作物を育てる土地はほんのわずかに限られ、領民はとても苦しい生活を強いられていました。富国を目指すためには、洪水被害から土地を守ることが最優先と考えた信玄は、治水工事に取り掛かります。天文10年(1541年)に始め、完成を迎えたのは永禄3年(1560年)、実に20年近い年月をかけた大工事でした。

川の流れを変えるために5つの仕掛けを設置

甲斐国で最も氾濫が起きやすかったのが「竜王」と呼ばれる場所でした。現在の甲斐市にもその名が残っている竜王は、甲府盆地を東から西に流れる御勅使川(みだいがわ)と、北から南へと流れる釜無川(かまなしがわ)の合流地点にあたります。それぞれの川が直角にぶつかりあい、エネルギー量が増すため、大雨が降る度に水害が起きていたのです。そこで信玄は、2つの川が合流する水流を、合流地点から少し北側にある自然の崖「高岩」にぶつけることで、水勢を弱めようと試みます。そのためには、御勅使川の流れを現状よりも北側に変える必要がありました。

そこで信玄は、御勅使川の水流の方向を変えるために5つの仕掛け(水制)をつくります。まず、最上流に設置したのが、氾濫時に水が南側に流れるのを防ぐ「石積出し」という水制です。その名のとおり石を積み上げた工作物で、ここでは、片端から石を積み始めて反対端で折り返して戻ってくる「行って来い」積みの手法が用いられました。これは江戸時代中期に確立された技術といわれています。信玄の時代にはまだ一般的でなかった技術が既に使われていたのです。

 

そこから少し下流には、流れる力を弱めるために「白根の将棋頭」と呼ばれる水制を設置しました。ここで分流し、北へ流れる後御勅使川と、南へ流れる前御勅使川が形成されましたが、昭和5年(1930年)に前御勅使川は廃川となりました。さらに下流の3ヵ所でも、将棋頭の設置や開削、巨石の設置によって流路をコントロールし、見事流れを北側に変化させることに成功したのです。

 

このように信玄は、幾重にも巧妙な仕掛けをつくり、水流を制御したのです。御勅使川の現在の堤防は近代になって建設されたものですが、それまでの間、この信玄の5つの水制が水害を防いでいたといっても過言ではないでしょう。

堤防が切れている!現在も残る信玄堤のからくりとは?

「信玄堤」は、御勅使川が釜無川に合流した場所から少し下流の左岸にあります。この堤防の特徴は、連続した堤防ではなく、複数の堤防を重ね合わせてつくっている点。「霞堤(かすみてい)」と呼ばれ、一つの堤防ですべての水流を受け止めず、次の堤防へ流すことによって、徐々に勢いを弱めていく仕組みです。上流側の堤防が決壊しても、次の堤防で氾濫した水を川に戻すこともできます。信玄堤では、その上に木や竹を植えて根を張らせることで地盤を安定させたり、「聖牛」といわれる水の勢いを弱める仕組みが使われたりしていました。

 

「聖牛」とは、多数の丸太で三角錐のような構造物をつくり、砕石を詰め込んだ竹籠数本を重しとして載せ、川の中に設置したものです。上流から流れてくる木や草などが丸太に引っかかり、徐々に大きくなることで、自然に水の勢いを弱める働きをします。信玄堤は、今でも甲府盆地を水害から守っており、当時の「聖牛」も3基ほどが河原に残っています。

堤防の管理に地元のお祭りを活用

信玄堤のおかげで領民は、水害の心配がない土地で耕作することが可能となり、暮らしが豊かになりました。さらに、信玄は竜王に住む領民には税を免除するなどし、その代わりに堤の管理を命じ、825年頃から伝わる地元の祭りを奨励しました。300人近くが神輿を担ぎながら、堤の上を左右にゆっくり練り歩くことで、土が踏み固められ強固になるためです。地味な土木作業を華やかな祭りの演目に変えたこの発想は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言を残した信玄らしいといえるでしょう。

優秀な人材の確保にも長けていた

信玄が、戦いに勝ち続けてきた理由の一つは、優秀な部下たちが彼を支えていたからだといわれています。信玄は優秀な人材を集め、囲うことに長けていました。約20年間に及ぶ治水大事業も、優秀な技術者である「川除(かわよけ)衆」を従えることで成功できたとされています。

 

昔から、土木工事には技術や知識を持つ人の力が欠かせなかったのです。しかし、現代、土木業界は深刻な人材不足に悩まされています。技術を持った人材に変わる技術を開発できないか? そう問いかけてきたトプコンでは、土木工事で活躍するショベルやブルドーザーなどの建機に後付けし、ICT化するシステムを用意しました。各種センサーを駆使し、高精度な制御によってICT自動化施工を可能にするマシンコントロールシステムが、作業の効率化・自動化・高精度な作業をサポートします。

 

信玄のような先見の明と緻密な構想を持って、未来につながる技術をつなげていくことが、トプコンの使命です。

1998年に開発された、建設機械の操作を自動化するマシンコントロールシステム

トプコンの土木工事に関する製品