2024-01-17

徳川家康が江戸を本拠地に選んだ理由とは?

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2023年11月9日、森記念財団都市戦略研究所が発表した「世界の都市総合力ランキング(Global Power City Index, GPCI)」2023年版によると、日本の東京が8年連続で3位に位置づけられました。一方、世界有数のビジネスデータプラットフォーム「Statista」が2023年10月に公開したデータには、東京〜横浜都市圏の人口が約3,778万5,000人に達し、都市圏の人口世界1位にランキングされています。

 

このように東京が世界都市としての地位を確立した背景には、戦後の経済成長が大きく影響していますが、実はその基盤ははるか昔に築かれていました。江戸時代の享保期(1716〜1736年)には、すでに東京(当時の江戸)の人口が100万人を超えていたとされ、1800年頃の北京(90万人)やロンドン(86万人)と比較しても、世界的な大都市を形成していたことが分かります。

 

現在の東京を政治の舞台に選び、都市形成の基盤を築いたのは徳川家康です。1603年に江戸幕府を開いてから、実に約260年間もの間、平和で繁栄する時代が築かれました。本記事では、徳川家康が江戸を本拠地に選んだ理由と、その後の都市発展に対する彼の影響について探っていきます。

 

「世界の都市総合力ランキング(Global Power City Index, GPCI)」
https://www.mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/

「Statista」
https://www.statista.com/statistics/912263/population-of-urban-agglomerations-worldwide/

大江戸の誕生(東京都立図書館)
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/machi/page3-1.html

家康の江戸入府は秀吉の策略!? それとも戦略的選択?

 

徳川家康が江戸を本拠地に選んだのは1590年、豊臣秀吉が難攻不落の小田原城を攻略し、北条氏を破って天下統一を成し遂げた年でした。小田原攻めで先鋒を務めていた家康は、三河や遠江、駿河などを治めていた五カ国から、北条氏が支配していた関東六カ国への国替えを秀吉から命じられました。2023年に放映されたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、この際、秀吉から江戸を拠点にするよう指示され、戸惑う家康の姿が描かれています。当時の江戸は入江の入り口に位置し、室町時代に活躍した武将・太田道灌(おおた・どうかん)によって築かれた江戸城がありましたが、とても簡素なもので、海がすぐそばまで迫る武蔵野台地の南東端にあったとされます。

 

このような土地に国替えを命じたのは、秀吉の嫌がらせだったのでしょうか。そのような説もありますが、実際のところは分かりません。一方で、幕府が編纂した『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』には、家康が自ら江戸を選んだという記述があります。浦和(現在の埼玉県)に居城しようと視察したものの、水運の利点を考慮して江戸城を選んだとされています。これが事実だとすれば、海に面し、関東地区を流れる複数の川の終着点であった江戸は、水運を利用した物資流通の拠点として、都市の発展に最適な場所であると家康は見抜いていたのかもしれません。

 

入江を埋め立てて、上水道を整備

家康が江戸に入府し、まず取り組んだのが、江戸城の立て替えよりも飲み水の確保だったといいます。海に面する湿地帯であった江戸では、井戸を掘っても塩水が出るリスクが高かったためです。そこで家康は、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵というダムを建設し、さらに上水路「小石川上水」を開きます。この上水路はのちに拡張され「神田上水」に発展します。武蔵野市の井之頭池を水源とし、樋と木樋を使った水道管を自然流下方式で江戸中の地下に張り巡らせました。神田上水は、明治維新後まで飲用水として利用され、現在は淀橋浄水場で処理したあと、東京都内に給水しています。

 

また家康は、利根川水系の治水プロジェクトにも着手しました。当時の利根川は、関東平野を蛇行しながら流れ、荒川や入間川と合流し、浅草川、隅田川となって東京湾に注いでおり、江戸に洪水の危険をもたらしていました。そこで、水路や支流、堤防の建設などで、利根川の流れを東に変え、銚子で海に注ぐようにしました。この大規模な河川改修工事は「利根川の東遷(とうせん)」と呼ばれ、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化に大きく貢献しました。

 

さらに、日比谷の入江は埋め立てによって城下町も整備されました。NHK大河ドラマ『どうする家康』でも、なだぎ武さん演じる伊奈忠次が、「神田山を削り、その土で日比谷入り江を埋め立てまする」と語るシーンがありますが、これは実際の歴史的事実に基づいています。ドラマを観て、日比谷が昔は入江だったことを知った人も多いでしょう。

 

代々の将軍の普請で、江戸が大都市へと発展

江戸が発展を遂げたのは、家康一人の功績によるものではありません。代々の将軍が家康の意志を引き継ぎ、伊奈忠次などの普請奉行も数多く活躍しました。利根川の東遷は、1594年から約60年の歳月をかけ、伊奈忠次から忠政、忠治と3代にわたって受け継がれました。3代将軍家光のときに参勤交代制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加は加速して大都市へと発展していきます。

 

人口増加に伴い、既存の上水だけでは飲用水が不足したことから、新たな上水道の必要性が高まりました。1653年、4代将軍家綱は、多摩川の水を江戸に引き入れるため、玉川上水の建設に着手します。工事請負人には、庄右衛門、清右衛門兄弟(のちの玉川兄弟)が選ばれ、総奉行には、老中松平伊豆守信綱、水道奉行には伊奈忠治が任命されました。彼らは、約92メートルのゆるい傾斜を使った自然流下方式によって導水路を建設。約43キロメートルにもわたる工事を、わずか8ヶ月で完了させました。翌年6月には虎の門に至るまで地下に石樋と木樋による配水管を布設し、江戸城や四谷、麹町、赤坂、芝、京橋方面など市内の南西部一帯に給水しました。

2030年、未来の東京戦略へ

東京都は、現代の大きな課題に対応するため、「『未来の東京』戦略」を策定しています。この戦略は、経済、テクノロジー、気候変動、人口構造といった四つの歴史的な転換点に直面している東京が、持続可能で革新的な未来へ進むための基盤を提供するものです。デジタル技術を活用した「スマート東京」の実現や時代の変化に柔軟に対応する「アジャイル」などが掲げられています。

 

このビジョンの実現に向けて、2030年に向けた20の戦略が提示され、これらを具体化する約120のプロジェクトが立ち上げられています。13番目に掲げられている「水と緑溢れる東京戦略」では、都市計画公園や緑地、農地の保全、外濠の浄化などが含まれており、長期的な展望として、現在は水路として利用されていない部分も多い玉川上水を本来の玉川上水の姿に蘇らせる可能性も掲げられています。

 

時代に合わせて、インフラ需要も変わっていくもの。トプコンは未来の都市開発においても重要な役割を果たすべく、「建設工事の工場化」をコンセプトに建設工事を効率化・高精度化していくDXソリューションを提供していきます。

https://www.topcon.co.jp/about/business/#infrastructure

 

〈参考文献〉
「徳川四代 大江戸を建てる!」(実業之日本社)
「日本史の新視点」(青春出版社)
「徳川家康『関東国替え』の真実」(有隣堂)

●未来の東京戦略
https://www.seisakukikaku.metro.tokyo.lg.jp/basic-plan/choki-plan

●玉川上水の歴史

●利根川の概要と歴史
https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html
https://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/tonege_index016.html

●東京の都市づくりのあゆみ
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/ayumi.html