2023-04-19

日本地図を作った伊能忠敬
測量の目的は地球の大きさを測ることだった!?

目次

伊能忠敬は、今から200年以上も前の江戸時代に、日本全国を歩いて測量し、日本地図を完成させた人物です。忠敬が作った日本地図は、縮尺別に大図(全214図)、中図(全8図)、小図(全3図)からなり、「大日本沿海輿地全図(伊能図)」と呼ばれています。現在の地図と比較しても、東西方向にズレはあるものの沿岸の形はほぼ一致するという精巧さ。最も縮尺が小さい大図には、測量して歩いた土地の風景が描かれていて、当時の様子が伺えます。

 

伊能図ができるまで、日本に出回っていた日本地図は「改正日本輿地路程全図」といわれるもので、各藩が作った地図を、水戸藩の儒学者・長久保赤水(せきすい)が編集したもの。正確な実測によって作られた日本地図ではありませんが、当時はそれで事が足りていたのか、伊能図が一般に出回りだしたのは、明治時代に入ってから。その後、日本地図作成の原型となったといわれています。ここでは、そんな「大日本沿海輿地全図(伊能図)」を作り上げた、伊能忠敬の偉業に迫ります。

家業を引退し50歳で天文学の道へ

 

伊能忠敬が、日本地図の制作に費やした期間は17年間にも及びます。測量は、全10回に分けて行われましたが、最初の測量地である蝦夷地へ出発したのは、なんと忠敬が55歳になってから。というのも、忠敬は50歳になるまで別の仕事をしていたのです。忠敬が生まれたのは1745年、徳川吉宗が将軍を退いた年です。現在の千葉県山武郡九十九里浜町にあった小関家に生まれますが、6歳の時に母親が他界し、婿養子であった父は離縁され、忠敬の兄、姉だけを連れて実家に帰ります。

 

なぜかひとり小関家に取り残された忠敬も、10歳の時には実家に引き取られますが、17歳で佐原(現在の千葉県香取市の北西部)の造り酒屋である伊能家の21歳の未亡人・ミチの婿養子に入ります。父親の実家で育った10〜17歳の間、忠敬は流浪し、出会った人から数学や医学などを学び、土木作業の監督を行ったこともあるといわれています。その時に得た豊富な知識のおかげか、忠敬は伊能家で類まれなる商才を発揮し、約3万両(現在で約45億)もの財を成しました。そして、49歳の時、息子に家業を譲って隠居し、その頃とても興味があった天文学を学ぶことを決意。江戸へ出て、19歳も年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に入門するのです。

地球の大きさを知るために測量を開始!

 

忠敬は、現在の江東区門前町仲町1丁目に居を構えて、至時がいる約4km離れた江戸幕府の暦局(国の暦学を作成する最高機関)に通い、自宅にも観測所を設けて天文学を熱心に学びます。観測時間になると大慌てで自宅に帰っていたので、身の回りの品をよく忘れていたという逸話も残っているほどです。しかし、どうして天文学に魅了されていた忠敬が、測量を始めたのでしょうか?

 

実は当時、暦局では地球の大きさが話題になっていました。地球が丸いことはすでに西洋からの情報で分かっていましたが、大きさが分からないので正確な暦を作れないのです。そこで忠敬は、緯度1度分の距離がわかれば、それを360倍すれば地球の大きさが分かるはずだと気づき、最北である蝦夷の地までの距離を測ることを提案します。提案を受けた至時は、幕府から許しをもらって予算を取るため、蝦夷地の地図づくりを名目にしたのです。

 

つまり、最初の測量の本来の目的は、地球の大きさを測ることだったわけです。この時、忠敬が求めた地球の大きさは、ほぼ正しかったといわれています。ちなみに、蝦夷地への測量は、幕府からの命を受けられたとはいえ、予算はほとんど下りず、忠敬は、1,200万円はくだらない私産を投資したそうです。

日本も世界も絶賛した世界地図が完成!

 

蝦夷地から戻った忠敬は、その実績を認められ、本州東岸、羽越、東海から北陸、畿内・中国地方、四国・大和地、九州、伊豆七島、江戸府内と次々に測量の命を受けるようになりました。ついに日本全国の測量が完成したのは忠敬が71歳の時。その6年後の1821年7月、伊能図は完成しました。しかし忠敬は、その完成を見ることなく74歳で亡くなってしまいます。忠敬の墓には、伊能図を完成させた後の9月に亡くなったと記されていますが、それは弟子たちが忠敬の偉業として発表するため、忠敬の死を伏せていたのです。

 

伊能図の原本は、1873年の皇居の火災で残念ながら消失し、副本も関東大震災で焼失しました。現在は、伊能家に残されていた控図などが伝わり、各地の図書館や博物館に保管されています。そして、実は遠いイギリスでも伊能図が保管されています。これは、日本が開国したばかりの1861年、日本からイギリス海軍に渡されたもの。日本の地図を作ろうとしていたイギリス海軍は、渡された伊能図を見て、その精巧さに驚き、最低限の測量だけ済ませ、伊能図を元に日本近海の海図を改訂したといいます。

 

攘夷運動が盛んだった当時ですから、イギリス人が日本各地を細かく測量していたら、攘夷派は心よく思わなかったでしょう。当時世界最高水準の地図づくりの技術を持ったイギリス海軍を唸らせる伊能図があったから、防げた戦禍があったかもしれません。

測量技術や道具の進歩で効率を高める

 

そのような精巧な測量を、忠敬は、一体どのように行っていたのでしょうか。最初の蝦夷地での測量は、歩測が中心でした。忠敬の歩幅は69cmで、常に一定の歩幅で歩けるように訓練していたそうです。竿の先に目印をつけた梵天を2地点に立てて、数人でその間を歩き、誤差をなくすために歩数の平均値を出したとされています。2回目以降は、縄や鉄鎖を張って測り、方位を測るには彎窠羅針(わんからしん)、勾配を測るには象限儀(しょうげんぎ)という道具が使われていました。歩くのが難しい沿岸は泳いで縄を張ることもあったそうです。

さらに、緯度や経度を測るためには天体観測が必要だと考えていた忠敬は、夜は見通しのよい土地が確保できる宿舎を選び、観測を続けていたといいます。地球の大きさを測るために測量を始めた忠敬が歩いた総距離は、約4万km。奇しくも地球1周分です。

そんな過酷な測量も今では技術が進化し、簡単に素早く行えるようになりました。トプコンが開発したGTL-1200は、一度で距離と角度が測定でき、レーザースキャナーも搭載しているため、3Dデータの取得も素早く行うことができます。忠敬が築いた功績をさらに進化させ、次世代へとつなげていきます。

 

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