2023-01-25

【トプコンの歴史①】なぜ、トプコンのはじまりは光学機器だったのか?

目次

「医・食・住」の社会的課題を解決するため、さまざまなDXソリューションを提供しているトプコン。2022年9月1日に創立90周年という節目を迎え、「創業90年のベンチャー企業」として、今も挑戦を続けています。

そんなトプコンの原点は、90年前の1932年。光学機器の製造を目的に設立されたのがはじまりでした。

 

国際情勢が緊張する中での創業

1932(昭和7)年、トプコンは「東京光学機械株式会社」として産声を上げました。第一次世界大戦終結(1918・大正7年)から昭和初期の日本の光学機器は、軍を中心に進歩してきました。しかし国際情勢の緊張に伴い、光学機器は欧米製品の輸入が難しくなったため国産化が必至となりました。

服部時計店精工舎

このとき、海軍の要請に従って設立したのが日本光学工業(現・株式会社ニコン)。そして陸軍は服部時計店精工舎(現・セイコーホールディングス株式会社)に白羽の矢を立てました。

 

そこで、服部時計店精工舎の測量機部門を主体に、同社の下請けだった勝間光学機械製作所のレンズ工場を買収し、東京光学機械株式会社が設立されました。当時の主要製品は、測量機、双眼鏡、照準眼鏡といった光学兵器でした。

創業時の社員は88名。創業翌年の1933(昭和8)年には、現在本社がある板橋区蓮沼町に社屋を建設し移転しました。この地が選ばれたのは、陸軍との取引に利便性の高い場所だったため。当時、本社周辺には農地も多く、新社屋は「畑の中に立つ鉄筋3階建ての白亜の工場」と、周辺住民の話題になったそうです。

軍からの要求に応えながら、東京光学機械の生産力は飛躍的に高まっていきました。第二次世界大戦終結の前年1944(昭和19)年には、売上高が過去最高を記録。社員数は7000名あまりいたと記録されています。

民需品への転換に挑戦

1945(昭和20)8月15日に戦争が終結。それから3ヶ月も経たない11月1日、東京光学機械は操業を再開することができました。軍需品から民需品へと製造品を転換する「民需品転換」について、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と東京都から許可を得られたからです。ただ、カメラなど写真機関連製品の国内販売は禁止されたため、連合国軍の兵士や海外輸出向けの双眼鏡やカメラの生産から始め、後に測量機の生産も再開しました。

 

軍という納品先がなくなったため、一般的な営業活動が必要になりました。建設省(現・国土交通省)や林野庁、各県庁への営業を開始した東京光学機械は、双眼鏡や測量機を担いで各地を歩き回り、実績を上げていきました。

1947(昭和22)年には、眼鏡レンズを測定するレンズメーターを発売。1950(昭和25)年には、光学分野の知見を生かして検眼機「レフラクトメーターⅠ型(RM-1)」の国産化を実現し、事業の多角化を進めていきます。1965(昭和40)年には、非球面レンズを研磨する技術により、国産初の散瞳眼底カメラ「TRC-1型」を発売し、眼科医療機器事業の礎を築きました。

カメラ事業が伸長、技術の会社として知られる

1949(昭和24)年にカメラの国内販売が許可されると、「トプコン35A」をはじめ、相次いで新機種を発売しました。「ドッジ不況(安定恐慌)」で経営が厳しくなる中、ブームに乗ったカメラ事業が経営を支えました。

 

しかし、国内のカメラ業界の競争激化により再び苦境に立たされ、1960(昭和35)年には東芝傘下に入りました。このとき、東芝は東京光学機械の技術や製品をさらに発展させる方針をとったため、東京光学機械には、その後の新製品開発につながる技術や生産方式が導入されました。

そんな中で1963(昭和38)年に発売した世界初のTTL(Through The Lens)開放測光方式を採用した一眼レフカメラ「トプコンRE Super」は、優れた性能を持つ製品として海外でも高い評価を受けるようになっていきました。このような世界に先駆けるモノづくりを通して、東京光学機械は「精巧な優秀製品をつくる技術の会社」として国内外に知られるようになりました。

 

なぜ、トプコンのはじまりは光学機器だったのか?

――国際情勢が緊張する中、測量機や双眼鏡、照準眼鏡など光学機器の国産化が必至だったから

 

~つづく~

次回:なぜ、トプコンは早くからグローバル市場を開拓できたのか?

https://www.topcon.co.jp/about/vol1/whytopcon1970/

 

トプコンの歴史については、こちらもご覧ください。

https://www.topcon.co.jp/about/history/